いのちより大切なもの
いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった
僕が大好きな言葉です。詩人でもある画家の星野富弘さんは、不慮の事故で首から下の自由を失うものの、口にくわえた筆で描いた花や木々の絵と詩が多くの人に感動を与えています。
僕たちは小さな頃から「命の大切さ」を教えられます。それはとても正しいことであり、誰にでもわかる大切な事なのですが、このような世間に浸透している当たり前の「価値観」は知らぬ間にわたしたちを縛っているかもしれません。
特にこれまでの日本の社会では、例えば女性の場合は長い間「良き妻」「良き母」であることが女性としての幸せな生き方だという風潮がありました。ですので社会生活の中でも「〇〇さんの奥さん」「〇〇ちゃんのママ」といった呼ばれ方をされました。
周りからそういう感覚で接せられることが当たり前であったり、自分の中でもそのような思考を持っていたとすれば、人間は無意識のうちに「こうであるべきだ」「こうでなければいけない」という姿勢こそが正しいものという縛りの中に生きることになります。
縛りの中に生きるという事は、その価値観の中で「無難」に生きるということにつながります。何かに執着するのではなく、多くの思いを手放して生きること、諦めることを「最良の選択」として一日、一秒でも長く生きることだけが生きる目的となってしまいます。
何度も言いますが、神様からいただいた命は大切です。でも「一日でも長く生きるため」に無難に日々を過ごすだけではなく、せっかくいただいたものですからこの命を燃やして何かに挑戦することもたまには良いんじゃないでしょうか?
神様が私達にくれたものは「命」そのものではなく「生きる喜び」だと最近は感じています。そう思うようになってから、ゴスペルを歌うことがより楽しくなってきました。ハレルヤ!!